Interviewインタビュー

完全個別で高校卒業

社会講師 清水SHIMIZU

「自分で考えて生きていく知識として」

INTERVIEW FROM ISHIYAMA TO SHIMIZU

石山

清水さんは、三重シューレで講師をされてもう10年ですね。
高校の教諭を退職されてから講師をされていますが、フリースクールで講師をやってみようというその時のお気持ちを教えていただけますか?

清水

最初のころは、僕はフリースクールの出来たいきさつや、存在意義がわかっていませんでした。学校へ行けなかった子どもにちゃんと学校並みの勉強を教えてやろうと、そういう意識の方が強かったですね。学校へ通うことが「普通」であるという考え方から抜けきっていませんでした。
でも、今は違います。むしろ学校ではやれないような学習の方法を通じて、子どもたちが、学校にいては伸ばせなかった力を育むことができる場所だと考えています。

石山

どのように変化されてきたんですか?

清水

それは私自身が、子どもたちと勉強することによって、知識を注入するだけの授業ではだめだと思ったからです。第一、そんな学習はつまらないし、そんな知識なんてすぐ忘れてしまいますし。むしろ、この子たちが世の中へ出て自分の頭で考えて自分の力で生きていく為には、知識を自分で体系化して、関連を見つけ出し、「ああなるほど、そういうことだったのか」とそういう目からうろこが落ちるような自分の頭で考える、そういう勉強をしてほしいと考えるようになってきました。
それを学校教育で行うのは難しい。担当する生徒の数は多いし、就職試験なり、大学受験なりに対応できる知識を詰め込まなきゃいけない、それが優先されますからね。小・中・高と、教員も子どもも到達すべき成績の数値が最大の目標となっていて、じっくり考えたり、情緒に浸ったりする暇もありません。
三重シューレでは、そういう発想から自由なので、子どもたちも我々も、意味のない無駄なプレッシャーがない分、気楽ですね。何らかの学習テーマについて、一緒にちょっと突っ込んで考えてみようかと、そういう心構えで子どもに対処できるっていう所ですね。

石山

担当されている世界史と地理ですが、よく社会科って暗記科目って言われていて、嫌いになっていく子は多いと思うんです。暗記科目と言われることに関して何かご意見はありますか?

清水

例えば世界史ですと、一年間でここで実施する授業のコマ数は本当に少ないです。ですから扱う範囲をものすごく絞らざるをえないですね。そこに私自身の問題意識が投影されると思うんですが、例えば今年だったら二つの大戦、第一次世界大戦、第二次世界大戦の時代に絞りました。
地理では、お隣の韓国、北朝鮮、中国、に特に重点をおいて、現在の日本が国際間で置かれている状況と東アジアの国々との関係について、子どもたちに資料を提供して一緒に考えるつもりです。

石山

可能な時間の中で、絞り込まれているんですね。課題のレポート、それからメディア学習はどうでしょうか?それらの課題に関して特別なやり方っていうのはありますか?

清水

地理も世界史も、レポートを全部やれば教科書の範囲をすべてカバーできます。レポートの内容も改良を重ねて、良くなってきていますので、それをやればある程度の知識は得ることができます。
その中で、関心を持ったところがあれば自分で勉強すれば良いし、一応教養としてレポートを全部やっても無意味なことはないだろうと思います。それは子ども自身の力でやれます。レポートについていちいちこうですよと指導するのにあまり時間を取っていません。

石山

私も社会科で、日本史、現代社会、政治経済を担当しています。ある程度のベースになる知識を吸収していって、自分の視点でそれらをつなげてみる。これは社会で起きている目の前のことを、自分で考える方法の一つになると思います。レポートで、ある程度ベースになるものに一通り触れることは意味があると思います。暗記するということでなく、一通り触れてみて、その時に自分で考える経験をするという感じでしょうか。その経験が大切なものになってくるかも知れないと思っています。

清水

三重シューレに来た子どもたちが、石山さんなり僕なりと出会いますね、それは一つの縁ですね。たまたまここへ来て僕と出会って、僕という存在の一つのものの見方、考え方を知ります。彼ら彼女らは「いやーそれは違うんじゃないかな」と考えてもらっていいのですが、そこには僕の人生経験なり社会経験なりがどうしても色濃く反映されていると思います。
僕は戦後の平和教育が活発だった頃に育った世代です。憲法の平和主義が大切だという認識は、信仰とはまた違いますが、身に沁みこんで一体化しています。次の世代の子どもたちにも、それを伝えていきたい気持ちは強いですね。今年の授業では、アウシュビッツや韓国で手に入れたパンフレットとか写真資料を子どもたちに見てもらいました。

「人と競わない中で学ぶ」

INTERVIEW FROM ISHIYAMA TO SHIMIZU

石山

そうなんですね。子どもたちと一緒に勉強していて嬉しいと感じる時ありますか?

清水

以前、私の講座の時間に顔を出さない子どもがいました。どうして出ないのかな、僕の第一印象がいやなので拒否しているのかなと、いろいろ思い悩んだりしていました。その子がその年度も後半になって、はじめて学習室へやってきました。くわしい経緯は省きますが、その時間の終わりには彼女とのコミュニケーションに手ごたえを感じていました。目も合わさない口もきかなかった子どもと話ができるようになるっていうことは、それはやっぱり喜びですね。

石山

三重シューレで、単位取得を法的にクリアするのはレポートとメディア学習やって、もちろんスクーリングも必要です。その中でプラスアルファの学びたい部分や、子どもを尊重した子どもに沿ったことが出来るわけですね。

清水

メディア学習とレポートについては、他の講師の方はどうか知りませんけど、メディア学習は私がレポートのひな型を彼女たちに提供しています。これ参考にしてもいいよと。メディア学習とレポートは必修ですが、僕のスタンスは、君たちこんなものは早くすまして、テーマを絞ってもっと話をしたり、考えようよ、という感じですね。

石山

さらに何か学校での教師とフリースクールの講師の違いはありますか?

清水

それはね、子どもたちにとって必要のない、何の利益にもならない無駄なものさしとか、無駄な意識を持たさないで済むっていうことかな。いわゆる人と比べて知識の量を競う必要はないよ、もちろんそれによって人との優劣なんて意識する必要はないよ、むしろ自分がここで何かに関心を持って、考えを深めてねと、それ以外に言う必要がないことですね。
学校では、知識の量でその子どもを評価する場面がひんぱんにありますね。フリースクールではそれがまったくありません。フリースクールは、その良さをもっと自覚しても良いと思います。

石山

代々木高校が作ったテストをやるわけですけど、その結果を人と比べてるとか、強いプレッシャーになってるとか、おそらく誰もいないですもんね。回数が少ないだけでなく、テストに対する捉え方、受け止め方が、私も全日制の教諭を経験してますけど違うなあって感じますよね。

清水

学校では、定期テストは一大イベントですね、そしてテストの結果に基づく評価がその人の人格形成にまで影響を及ぼしている。

石山

今、気付いたんですけど、テストの平均点って発表したことないですね。(笑)
多くの学校や高校では、いつもテストの平均点を発表して、教師の方もプレッシャーになっていて・・・平均点は教師の評価でもあるわけです。三重シューレでは平均点と比べる必要ないですもんね。

石山

学校とフリースクールの学びと特に違う所はありますか?

清水

学校では、教員も生徒も一番苦痛の原因は横並びですね。画一化とそれから効率化、それが学校の宿命みたいになっていると思います。教員もそれをしないと学校が運営できないような考え方に縛られている。例えば服装にしろ、教室での授業のあり方にしろ、一斉授業のあり方にしろ、机の並べ方にしろ、整列の仕方にしろ、何から何まで他と違うことをしたらそれはダメなのだと、もうそれでピリピリしているところがありますね。それが息苦しさを生んでいるのだと思いますね。
個の尊重とは真逆の状態がよしとされるのが学校じゃないかな。日本では、個の尊重を実践している学校はほとんど無いのではないかと僕は思いますね。
統制のとれた全体を美しい、よしとする、そういう文化が学校にあると思いますね。それが不幸の源泉だと思います。子どもにとっても教員にとっても。

石山

先程のような学校も、個を認めないで集団主義でいくことがその後の人生にメリットがあると考えられる時代ならば、もしかしたら選択肢としては有りかなという気はするんです…自分は嫌ですけど。
例えば高度経済成長時代で、その組織で従順に仕事をしていれば、その人の将来は定年まで終身雇用で保障しますよというのであれば…でも今、それは完全に崩れちゃいましたよね。ブラック企業に見られるように、社員の命や生活を平気で犠牲にする会社もある。これは他の国から見たら異常でしょう。
そして、従順な社員を組織が一生庇護する仕組みが崩壊したにも関わらず、その価値観で教育をやっているように見えるんです。自分の心に素直に生きるのでなく、組織に従順に生きることに価値を置く教育です。この矛盾を強く感じている子どもたちは多いと思います。

清水

そう思いますね。
でもまあ、救いはね、声をあげる人たちがたくさん出てきている事ですね、それに抗議する声をね。

石山

そうですね。
不登校の経験者や関係者はずっと声を上げ続けているわけですが、個が尊重される社会にむけてこれからも声をあげていきたいですね。